坂口安吾『堕落論  100分de名著』NHKテキスト 大久保喬樹

現在、堕落論は可能か?

坂口安吾の『堕落論』は何度かのブームとなって繰り返し読み継がれている。それだけインパクトが強いし、まだまだ賞味期限切れではないことを示しているのだろうか。

そもそも堕落とは規範や道徳、常識などの建前から堕落して、本来の姿にもどっていくこと、そしてそこから再生を果たすことだった。そしてその薦めだったのだ。戦後の混乱期で生きる方向を求めていた人々にインパクトを与えた。

いま、現在ここにきて再度日本はどうしたらいいのかに迷っているように思える。停滞の10年を過ぎ20年、そして25年に至ろうとしているからだ。戦後すぐのような目に見えた混乱期ではないけれど、静かなる混乱期に入っているのだ。

今回のテキストはそういった状況を踏まえて安吾のエネルギーを参考にしてみようという提案だった。「特に、人生の転機に立ったひと、いままでの自分のやり方ではこれ以上進めないと感じている人にとっては、大変“効く”評論であるとも思います」と講師大久保喬樹は述べている。

第1回はその堕落論そのものを取り上げている

ここでのアクシスは戦後という時期と2016年という時期を意識して一般化していうなら、この小誌の表紙にあるように、「タブーを捨て、己れの真の声を聞く」と言うことだろう。堕落せよと言われても、すでに堕落してしまっているので、これ以上堕落しようがない。むしろ現在なら「自分をごまかすな」と言う意味での「覚醒せよ」ではないだろうか。

第2回「一人曠野を行く」という章。

ここで意識されているのは、さすがにあまり時間が過ぎて緊張感のない天皇制であったり、既存の戦前の道徳が強く意識されている。発表が1946年だから不思議ではいが、これらからの反抗という形で進行する。堕落とはこういう正しいとされる道徳やら天皇制を建前とする秩序から堕落することをさしていた。

また、そこから堕落して新の姿を見出せと安吾は説いたのである。

つまり堕落とはそんなありもしない、だれも本当に信じてなんていない道徳から脱出せよと言っているのだ。しかしそこには、ひとりで曠野を行くような孤独があると。それでも目指せといったのだ。

そして、それはすました市民ではなく、お仕着せの「ニセの着物」を着た善人ではなく、そうとしか生きられない悪人、淫売婦こそがその生き様は茨の道ではあるが、人間本来の道を行く人であると。また天国に、浄土へ近いとキリストのマグラダのマリア、親鸞の悪人正機説へと繋いでみせた。

当時は、そうだったろうが、今日では堕落はまさに本来の意味での堕落であって、天国に近いわけではない。小狡くて、悪質で陰険だ。すでに日本人すべて(すべてと言ったら言い過ぎか)が堕落しているので、さらなる堕落はできない。

但しこれを、人間が作り出した「カラクリ」を崩せというなら、それは現在でも真実だろう。今も、自分で考えて、自分で判断する、孤独だけれど曠野を行くような人は少ないから。

今日では、安吾の頃と様相は変わっていて、すでに全員が世俗化しているから、むしろ逆に「自立しろ」と叫ばずにはおられない。

第三回は日本文化について

第三回はブルーの・タウトへの批判という形で書かれた戦前のエッセイ「日本文化史観」を取りあげている。ここには明治期の日本人が誰もいいとは言っていなかった日本の美、簡素な美をブルーノ・タウトが評価して、それに当時の日本人が悪乗りして日本の美だと自慢する姿を逆に批判している。そこには、伝統建築、法隆寺であっても邪魔だとなれば壊してしまってもよいという極論を吐いてまでして批判した。生活に根ざした文化でないと本物ではないと。

しかし、そこが今となっては逆に、文化財がどんどん取り壊されていく現状を見るにつけ逆に受け入れられない状況にもある。でも、この安吾の主張をもっと歴史を超えたところで取り出すとするなら、それは「自力で道を切り開く生き方」という無頼派につながると、締めくくっている。

でも、でも先にも言っているように、タウトは決してまったく日本文化に無関係のものを発見したわけではない。その当時日本人が見捨てていたものこそ大切だと警笛を鳴らしたのだった。それは今となっては評価できるという裏の裏がある。今の日本人はあまりに生活、生活といって目先の利益にこだわって、むしろこれまでの過去を破壊しているのだ。

1942年に発表されたこのエッセイが74年を過ぎてまだ得ることがあるとするなら、本来の無頼の意味での姿勢、つまり誰にも頼らないという本質に迫ろうとする姿勢だけだろう。

■第4回「真実の人間へ」として岡本太郎を取り上げる

岡本太郎の縄文文化論と関係づけて岡本のそれが坂口安吾の堕落論を引き継ぐ者として考察される。それに先立つ母親との不仲の関係は血縁の親とはいえはかなり屈折した像が見えるが、 13人も子供がいる大家族の話なので、いかようにもあったようなもので、家族内に何かトラブルがあるのは当然といえよう。親子関係も含めて、人間関係なのだから相性もある。それに過剰に反応した安吾が個性的なのであって、そのことが特に重要ではないと思える。

むしろ重要なのは、そこから一歩でも出て、どう考えたと言うことになるのだろう。

そこで静的な弥生文化と言う価値観から脱出して、縄文文化を発見したと言う岡本と共通するかということが言えるだろうか? それが『日本文化私観』と共通していると言えるのだろうか? また最後にもっと一般化して安吾思想の普遍性まで引き延ばして言えるだろうか? あまりに情緒的な「堕落」という言葉で難しいかもしれない。ラジカルと言えばラジカルである。それは認める。しかしイエス・キリスト的な個によるラジカルであって、個のふるまいとしてのラジカルであった。所詮は道化になってしまう。

もし日本に必要な芸術があるとするなら、もっと緊密な芸術じゃないか? 静的では無い動的でやってもいいが情緒的なものではなくもっと硬質のものだ。音楽でももっと硬質のものがあって欲しいと思う。

しかし78ページで触れる堕落論と仏教との関係は常々つながっていると考えてきたので評価できる。

何故仏教の勉強をしていたのか(年譜によれば昭和元年20歳の時、東洋大学印度哲学倫理学科に入学している)その影響が明示的に、彼の作品に出てこないのかと言うことを日ごろから疑問に思っていたので「もろもろの現世事象を迷妄、無常と悟ことを説く仏教の教えは、『ニセの着物』をはぎとって裸の人間になって出発せよと言う安吾の主張に通じるものがあるともいえます」はまさに仏教の基本形をなしている。

堕落からの再生と言ってもそれは逆の信仰行為のことであって、信仰そのものの心的過程であるとも言えるから。その思考の運動は仏教とよく似ているのだ。一見違うように見えるがベクトルが逆になっているだけなのだ

安吾は何も特別なことを言ったわけではない、人間が危機にであった時に見せる心的過程を述べたに過ぎなにのである。真の姿に戻れと。しかし、人はしばしばその時代のその世間の空気に憑りつかれているから見えていないだけのことなのだ。その既成観念を取り除けば未来が見えてくるはずなのだ。

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