関裕二『ヤタガラスの正体』(廣済堂新書)

関裕二『ヤタガラスの正体』(廣済堂新書)

ヤタガラスの正体

多数ある関裕二の著作のうちのひとつ。新書版で刊行されているので、手軽に読めるとつい手を出してしまった。この手の本は小説と同じで、オチをつけてもらわないと面白くない。どのようなオチであっても良いのだが、はっとするアイディアをいただけたらOKと言うことになる。

第一章『日本書紀』に出てくるヤタガラスの登場を神武東征に沿って確認していく。すでに既知のことであるので、そうか、そうかとこちらもうなずきながらついていく。第二章は「熊野」の説明に費やされヤタガラス(八咫烏)と高倉下の関係に触れ九州と熊野をつなぐ太平洋ルートが海人との関係で推理される。まだ話は動き出さない。

第三章に入って、やっと話が動き出して、展開が始まる。具体的には『日本書紀』の編纂が、一つの事件を何度も時代を分けて配分して編纂したのだとする仮説を立てている。

①神武東征の神話

②崇神の正体

③神功皇后と応神天皇

これらが同じ事件を時代を切り離して何度も同じ話を組み替えて作っていったのだという。時は3世紀中期。つまり邪馬台国の時代と言うことになる。そのころなぜだかわからないが日本のすべての勢力は大和を目指していた。そこで覇権を握る争奪戦が行われたとみる。そしてヤマトが建国だとされた。そのヤマト建国の事実を日本書紀は隠しているとする。それは、蘇我氏・物部氏が建国のヒーローだったという事実を隠していると言うこと。これらの争奪戦の最終戦争に勝利したのが藤原氏つまり中臣であって、その藤原不比等が歴史を改ざんして『日本書紀』を編纂したのだと言う。

第四章でそれと関係してヤタガラスの正体が明かされる。大物豪族がひしめく中、影のフィクサーのようにあやつっていたのがタニハだと言う。そして八咫烏ことがその氏族の出身だったと言う結論に至る。タニハとは丹波、丹後、但馬地域を総称する勢力を著者がこう呼んだのだ。

総括は次のようになっている。

「くり返すが『日本書紀』はヤマト建国に活躍した『中心メンバー』を覆い隠し、出雲と九州だけで、神話を完結してしまった。『日本書紀』の神話は、邪馬台国と大ヤマト建国の真相を闇に葬るために、もともとあった伝承を利用し、歴史を改竄し悪用したのだろう」という。

そして次のように問題を提起した。

「活躍していたはずの地域」が『日本書紀』に記録されていないことに気づいたのである」

日本書紀に関する著作は枚挙に暇がないが、但馬勢力が関与していたとする文献はあまり聞かない。ただしその勢力の中心となるような地域はどこだったのだろうか? 著者は丹後半島、但馬一帯を指している。198メートルを超す網野銚子山古墳(京丹後市網野町)、190メートルの神明山古墳(京丹後市丹後町)などを築いた勢力であると言っている。しかし、日本書紀ではきれいに消し去られていると言う。

なぜ丹波なのかというと、そこには鉄が介在しているのだ。鉄を手に入れることそれが一番問題だったので、丹波がキーを握っていたのだ。しかし、表舞台には出てこなかった。

その丹後いや、タニハこそヤタガラスの正体だという。

ヤマト建国の秘密

これはこれで面白いのだが私が反応したのはこの文脈ではない。

本とは面白いもので文脈とは別のところで反応したり気付いたりする。それがまた面白いことなのだが、それは大和建国の事実を三つないし四つに分けて記述したとする部分で、邪馬台国の卑弥呼は、大和に大勢力あるのを知っていて、魏にたいしては倭王と偽証したと言う(136ページ)ことだ。

これは本居宣長の邪馬台国偽僭説でとして有名であるけれども、神功皇后=卑弥呼ではなくて宗女台与だとする。その見解に驚いたとともに反応したのだ。

つまり山門の県(福岡県みやま市)の女首長を滅ぼし、反転して新羅を責めている。ここに登場する女首長こそ邪馬台国の卑弥呼と著者は見ている。

つまり書紀に登場する土蜘蛛の田油津姫(タブラツヒメ)のことだ。しかし魏志にあるように混乱したので宗女台与を立てて平穏を取り戻した。この台与こそが神功皇后であったという。

むろん宗女ではなく偽証した卑弥呼を滅ぼしたが、争乱が続くので神功皇后が台与になりすまして治めたと言うことだ。

と説明する。

ここで反応したのは偽証のことで、本居宣長的には日本の皇室が魏などに朝貢するはずはないという皇国史観にからだったのだが、べつに皇国史観にたたなくても、偽証したのだと考えれば、あのややこしく不明瞭な旅程も行程も納得できるきるものではないかと考えたのだ。

そもそも魏志において使者は伊都国までしか行っておらず、後は倭人より聞いた伝聞と言う説があるので、伝聞だとすると巧妙に嘘をついたとしてもおかしくないと思ったからだ。

また山門郷は考古学的には注目の地域で九州新幹線の工事で発掘調査が行われ弥生時代後期後半から弥生時代終末期とする住居跡が多数発掘されていると言うからこれからが楽しみだろう。

九州においては考古学的に見るものがなかったので、そこが邪馬台国九州説の弱点だったのだがこれから発掘されていけば新しい事実出てくるかもしれない。

関裕二の仮説が正しいかどうかということになるのだが、古代史は考古学だけでも文献学でもダメで仮説を含めることが大切だ。

ただしその仮説は現代人の生活感覚から類推するのは間違っていて、古代人の感覚を想像して類推しないと真実たどり着けない。

古代モノの歴史小説が全く面白くないのはこのことによっている。

仮説はあくまでも古代でも現代でも通用する抽象化された原理にもとづくかなければ、ちっとも面白くはないものだ。

そこを関裕二は政治権力の力学を導入しているので面白かったと言うことだ。

邪馬台国山門説女

ここまで書いて、手近にある本で、邪馬台国山門説を探してみた。

すると、岩田一平『珍説・奇説の邪馬台国』があった。これは全国各地の邪馬台国の候補地をめぐったものだ。

この8章に「謎の七支刀が結ぶ山門と大和(筑後山門説)」がある。

この章では遺跡群については言及していないが、山門郷とすれば近くに「女山」(ぞやま)神籠石が気になるだろう。

卑弥呼の宮室・桜観、城柵のあったところかとすぐに連想してしまうが、次のようにあっさりと否定されている。

「女山神籠石についてはは残念なことに、その後の考古学調査から、つぎのような事実が明らかになった。各地の神籠石に共通する石の加工方法は七世紀の終末古墳の石室と同じく土台の基礎工事のやり方は『日本書紀』にある七世紀築造の大野城(福岡県)のものと、それぞれ似る。しかも寸法を測るのに唐尺が使われている。これらのことから、大和朝廷が七世紀に唐・新羅連合軍の侵攻を恐れて築いた山城との見方が有力となった。低い石列の理由も、その上に土を押し固めた土塁や木柵を高く築くための基礎だったらしい。」

どうも身もフタもない話になってきてしまった。

しかし、桜観ではなかったとしても、古墳群はこのあたり一帯にあるので「大いに冢を作る」の卑弥呼の塚かもしれない。

http://www.h2.dion.ne.jp/~okioki/isekitizunew.html

もっと、別の思考からで瀬高町あたりと推定した文献もある。

竹内柾『邪馬台国と大和の国』新樹社

である。

自然地理的方法から距離を割り出した。

詳しい方法は別に記すとして、「結論として今のところ、邪馬台国は八女市瀬高町近傍と推定するしかないのである」(p-55)

のでこれもいずれ紹介したい。

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