ハリーG・フランクファート『不平等論』というウンコな議論

ハリーG・フランクファート『不平等論』というウンコな議論

非常に興味深い本に出会った。著者は道徳哲学の重鎮らしいが、私流に言わせてもらえるなら、突っ込みどころ満載にして、また逆により哲学的に考え込んでしまった本となった。

きわめて、アンビバレントな読書体験だったのだ。

端的に言ってしまえば、平等主義を言い出すのは危険であるとともに道徳的根拠はないと言う。だからこそ「不平等論」なのだと言って、著者は挑発する。

その〈平等〉なるものは、「経済的平等主義とは、私が理解する形では、万人が同じ額の所得と資産(手短には「お金」)を持つのが望ましいとするドクトリンだ」p-15

と経済的な平等主義のことを指して議論を始める。

フランクファートは決して不平等主義者であって差別しようと言うことじゃないと何度も断っている。もっと議論を抽象化して論じていて、平等はあまり根拠なく直感で思い込んでいるに等しいとする。

もちろんジャン・ジャックルソーの『人間不平等起源論』を持ち出すまでもなく、人間は生まれながらにして平等とは言えない。だからこそ平等をめざすと言うのだが、われわれは結果平等を求めているのではない。

決して、フランクファートの提示したドクトリンのことを平等主義と認めているわけではないのだ。だって、所得と資産がなんの努力の限定もなく同じというのはそれこそ平等ではない。それは個人へのあたえられた機会の平等であり、チャンスの平等と言うことだった。しかし著者は事もなげに「機会の平等」もあっさりと否定する。

「どんな平等性であれそれを本質的に望ましいものと考えるのは、絶対まちがっていると私は信じる。平等主義的な理想の中で、その実現が単純かつ厳密にそれ自体のために価値あるものだと言えるようなものは一つもない。平等性を求めて苦悶するのが道徳的に重要な場合は、常にそうすることで何か別の価値が促進されるからであって、平等性そのものが道徳的に望ましいからではない」(p-68)

そして続けて、

「機会の平等、敬意の平等、権利の平等、配慮の平等、思慮の平等など。私の見方では、こうした平等性のモードはどれ一つとして本質的に価値あるものではない」

と断言する。

ただし、ここで言っているのは道徳的価値がないと言っているだけのことだ。

平等は果たして道徳なのだろうか。道徳的に正しくないから不平等なのか?

経済的な平等に限って言うなら、格差が問題なのではなく、貧困が問題なのだと言う。そして貧困は、十分に保有していないからだと言う。みんなが十分にお金を持っていたら、貧困じゃないと。「一部の人が他よりたくさんお金を持っていたところで、それはことさら意図的な懸念をすべき問題ではない」(p-15~16)と強弁する。

かつて、支配層が使った〈足るを知れ〉と言って支配に利用しようとした構造だと誤解されるかもしれない言い方をする。

それは意識のもちようだと。

このことは「機会の平等」についても、その当事者の個人が不平等扱いされ、怒っているわけではないが、敬意を持って扱われなかったが故に、彼は怒っているのだと事柄を矮小化する。

また次のような矮小化もある。

「平等主義に基づく、不平等は本質的に悪なのだという糾弾は、他人よりかなり恵まれない暮らしをしている人々が、それでも絶対的にはかなりよい目を見ているということを認識した場合には、その力の相当部分を失うと私は思う」(p-71)

不平等を糾弾していたのが、もっと貧困な状態にある人を見たときには、その糾弾は弱まるのか。そもそも比較の問題なのか? 相対的貧困は言ってはいけないことなのか。もっと苦しい人がいるじゃないかというあの手の言い訳は聞き飽きた。

生活保護を不正受給していたのを見たときなどはこうなのだろう。また新自由主義者などもこのような不公平をいいつのっていた。生活が苦しくなければ生活保護を受ければいいんだと言って、甘える。狡いじゃないですか? その税金は誰が払っているのか? 一生懸命働いた俺たちなんだぜ。不公平でしょうとつぶやいていた。

またまた、

「ある人物に提供される機会が、その人にとって選択できることが望ましい代替物を含んでいるかどうかは、その人の能力や関心や潜在力にどんな機会が適しているかどうかで決まる。その機会が他人に提供される機会と一致しているかどうかには依らない」p-74

これなど具体的な個人のレベルに〈機会〉をおとしめて矮小化しているのだ。また見かけの一度も二度もチャンスを与えたしかし、君はチャンスをいかさなかった、という言い訳によく使われた例だった。

「君にはチャンスを与えたが、生かさなかった」

「いや違う、チャンスを与えるふりをしただけなのだ」

と言う非難の応酬は1,990年代から2016年に至るまで数限りなくあった。

個人の具体的なレベルでの機会、チャンスのことでなくて、政治的・制度的なレベルでの話であって、個人レベルで政治的・制度的レベルの機会を取り逃すという事は平等主義の理念にとっては関係ない。

この後おびただしく具体の問題と一般の問題をないまぜにして論を進行していく。

そして結論はこうだ。

「平等それ自体がそのものとして、独立して重要な道徳的理想として基本的な価値を持っているという広範な思いこみは、まちがっているだけではない。それは何が根本的に道徳的であり社会的に価値あるものかを見極める邪魔になるのだ」p-87

あくまで道徳論で押し通し、道徳的でないとする。

ちょっと待って、冒頭に戻って、そもそも経済的平等主義から始めた。そして限界効用低減理論を批判して「消費財の供給は、結局のところお金が再分配されても増えるわけではない」と結論した。(ここに貧困のことを言っているかと思うとすでに十分に足りている場合と話をすり替えているのだがそのことはおいておこう)

経済の話をいつの間にか道徳の話にすり替え、味噌もクソも一緒にしてしまって論じている。いや論じているふりをして進んでいくのである。

それでは平等主義とは誤りなのだろうか? 著者の言う社会的に価値あるものとは一体何なのか? いくらでも疑問が湧いてくるであろう。

そして平等とは不平等とはそもそも何なのかと言う哲学的(ここで著者は抽象化して問うているのだと何度も強調しているので)に答えると何なんだろう。

本書の訳者山形浩生も「その根底にある平等という理念について、厳密に考え直してみるのは大いに意義がある。本書の読者のみなさんが、それを自分なりに考えてくだされば幸甚だ」と解説で結んでいる。

そこでせっかくなので一読者として考えてみた。

道徳哲学なんて、全く関係ないので勝手な理屈を考えてみたと言っていいだろう。ヒントは意外にも同じ71ページにある。

「不平等と言うのは結局、純粋に形式的な特性だ」

「この二つのアイテムの間の形式的な特性からは、その両者のどちらか、あるいはその両者の関係の望ましさや価値について、何一つ導かれるものはないのだ」

そう述べている。

純粋に形式的なのだ。という事は確かに形式なのだがそれを限定してみる。

せっかくなので、リリアン・R・リーバーの『数学は世界を変える』から引用してみよう。

「とても便利な記号で公式を表せば、複雑な文章からだと見つけるのがとても難しいようないくつもの興味深い事柄を一目で知ることができるのだ」(下線は引用者)

これに準じて考えてみよう。

つまり不平等は< or >として表示され

平等は=で表示できる。

それを例えば

①A > BC  or A<BC

②A= BC

とすると、①はA大なりBCであり、A小なりBCであるかである。

②はA とBCは等しいということになる。

①は常にA> BCまたA<BCであるが

②はB=A/C、C=A/Bへと展開できる。平等である方がチェンジできる、または展開できるのだ。

但し、CにおいてはC> 0 のときはそのままだがC< 0なら逆になる。A> BC はA<BCに変わる。

しかしこれは既に①に含まれているので同じと言うことになる。

(ただし、マイナスCとは何か? 何を意味するのか。それは面白い)

(また不平等を表すのに≠や≒も正しくない。なぜなら、単に状態を示しているだけで、展開できないからだ)

それはともかく我々は一般としての政治的理念としての平等主義を志向しているのであって、道徳の中には入り込むことができないと考えている。政治はあくまで解決できるのは外的・経済的条件までであって、個人の内面の問題までは解決することができない。その人間の一般と具体的に存在する個人をないまぜにする議論は賛成できない。

そう考えると実は先に示した結論にあたる文章の前文にはもう一つの文章が入っていたに注目しよう。

「言うまでもなく、平等主義的な目標の追求は、しばしば各種の説得力ある政治的社会的理想を促進するにあたり、きわめて重要な効用を持っている」と。

そして「はじめに」での文章の末にはこうあった。

「経済的平等が実際にはある程度の道徳的重要性を持つかもしれない一つの方向性を復活させてみる」p-9

このように復活させたかどうかは別にして、第一章であれだけ経済的平等性に異議をとなえておきながら、こう述べるのはやはり少なくとも社会に個人間に不平等がある中で、少しでも平等化しようとする理念は政治的経済的な面では有効であるということだ。

我々が機会の平等と言うときの理念あくまでもこのレベルの平等であって、一個人の道徳のもんだいではない。むしろ人類の規範のもんだいなのだ。

フランクファートの前著『ウンコな議論』でも同じく挑発的なエッセイになっていた。ウンコな議論とは、屁理屈だったり、はったり、おためごかしの嘘を通そうとする議論のことだった。そんな口先だけの議論をさしていた。

そんな議論が横行することへの揶揄をさして「ウンコな議論」と人を食ったようなタイトルのエッセイだった。

同じように本書も読者を挑発するが、落ち着くところは不平等であっていいわけではない。それでもなお不平等は広がっていくであろう。

結語

平等・不平等は道徳とは関係なかった。

ある状態をさしていたのだ。それは左辺と右辺との比較の時の関係であって、どんな小理屈を作り出しても、不平等は不平等である、と言うことを意味している。しかし、経済的に「十分に保有している」ということが大切で、十分に保有していたら、経済的格差があったとしても問題はない。

冨は常に偏在するものであるから。

本書の副題「格差は悪なのか?」は答えを出すとすれば、「悪ではないが、十分に保有していないがゆえに悪なのだ」と答えておこう。

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ハリー・G/フランクファートの『ウンコな議論』と『不平等論』筑摩書房

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