佐藤理史『コンピュータが小説を書く日』 肯定でも否定でもなく

佐藤理史『コンピュータが小説を書く日』 肯定でも否定でもなく

そんなもんじゃないよと言う否定の気持ちと、これ面白いかもしれないと言う気持ちの入り混じった本と言えばいいんだろうか。

そんな本に出会った。

批判するならいくらでも出てくるけれど、そうしてみても一向になんら語ったことにならないし、新しい試みに水を差すことになると言う複雑な気分なのだ。

気分で物事を判断してもらっちゃあ困ると言うこともあるだろうが、正直なところと言うとこういうことなのだ。この文章が終わるまでには、なんらなかの判断ができるかもしれない。

まずは、否定することから始めてみよう。そのほうが入りやすいからであって特に意味はない。

誰もがすぐに言い出しそうなこと。つまり人工知能に(実はAIはエイアイと言い直しており人工知能なんかじゃないと著者は何度も言う)小説なんて書けるはずないと言う批判だ。人間の心の機微を表現できるのか? ということに尽きる。それはできないでしょうと言いたいのなのだ。

本書で前5章までで、どうして作成したのかという方法について述べている。Ghost Writerと言うプログラムを改良して、またそこに自動設定機構組み込んで、テキストを生成されると言う。よくわからないがそういうプログラムを使っていると言うことだ。しかしそれは闇雲に生成されるわけではなく、パラメーターの導入と、そもそものストーリーの設定、オチまでは人間がやることになる。そこで生成された短い文章だけでは、星新一賞には応募できないので、いくつかのバリエーションを変えて生成して原稿を作成したとある。

実物を読んでみると「コンピュータが小説を書く日」というタイトルの意味を含ませているので、テレビの中のテレビのようなもので、語りがコンピュータで、それをコンピユータが書いたということになっている。同じ内容のストーリーがいくつか繰り返されるので、そこはコンピュータ的にして漫才で言うところの笑押しで、「もう、わかったちゅうねん」というツッコミが入るところだろう。

星新一賞には、私も何回か応募したことがあるので、(お察しの通りすべて落選しましたが(笑))横書きの小説で、それもなんでもありというところでショートショート風の作品が選ばれやすいと言う事は言うまでもない。何せ星新一その人がショートショートの元祖ですから。

しかしながら本書がすばらしいのは、5章以後でがぜん面白くなってくる箇所で、この本の核心は次の2文にあると言えるだろう。

「まず第一に、コンピューターにとって日本語の文章は、単なる記号のなる羅列でしかありません」

「コンピューターに人間の言葉を理解させる方法はまだよくわかっていません」

この2つに尽きるし、やっぱりそうなんだとな納得させる。コンピュータが言葉の意味を理解して言葉を生成したのではなく、あくまでそれは記号でしかない。誰がその記号を排出したのかと言えば、そのコンピュータのアルゴリズムを提供したい人だということになる。有名な将棋対局や囲碁対局がAIの勝利に終わることをもって、AIは人間を超えるというように面白おかしく喧伝されているけれど、それは嘘なのだ。アルゴリズムとの対局だということになる。AIが金融を支配するだの人間社会を支配するなどということも、そういうアルゴリズムを作った人による支配ということに過ぎないということがはっきり教えてくれた本だ。教えてくれたと言うよりうすうす分かっていたことをAIの専門家の発言により安堵したと言うところだろうか。著者ははっきりと言う「コンピューターは意識を持ちませんし、自由意志を持ちません」と。

コンピューターが意思を持って何かをするなどと言う事は現時点ではありえないのですと言いきっている。そのように錯覚するのは擬人化にあるのではないかと言う。人間でないものを人間になぞらえるからと。おそらくきっとそうなんだ。なんだかわからないものが意外な結果を出すということによってそれを擬人化して考えてしまうと言うのは人間の観念構造にとっては一番理解しやすい方法だったからかもしれない。

さてそれでは著者はなぜAIによる小説作成をやろうというと面白いからだと言う。それをこんなふうに言っている。「小説はコンピューターが書こうが、人間(プログラマー)が書こうが、面白ければそれでいいと思います。そんなことを気にせずそこにあるテキストを楽しんで読めばいいと思います」

面白ければいいというその面白さは、面白おかしいということであって、興味深いとか考えさせられたとかいう面白さではない。すぐに忘れてしまうという類のもので、ショートショートに多少なりとも異論のある私にとっては承服しがたいが、百歩譲って、それもありとしてみるとそれはそれで有用なのかもしれない。この技術は小説の文の生成ではなく、もっと定型のある文の生成には役立つだろうし、実際には各種メール(アポイント、クレーム、御礼など)や毎日の天気概況やマーケット概況、交通情報や渋滞情報などにで利用できるだろうと言っている。それはかなり可能性が高いと思える。でも、それはどうってことのない情報であって、読むことによって何かが変わると言うことを期待しての小説ではどうなんだろうかと言う気もする。小説観の違いもあるんだろうけれど。

時間を潰すために小説を読んでいる人、またちょっとしたエンターテイメントのつもりで小説を消費している人々への提供を否定するものではないが、私だけの事かもしれないけれど、そんな小説を読んで楽しい? と言う気分がする。あくまで自分の知らないことを発見したいという期待で持って読むのでなければ本当に面白くはないでしょうということだ。

著者佐藤理史はなぜ研究するのかと言えば、それは私の答えは「知りたいからです」と答えている。小説を書きたいから書くそれはいいだろう。そしてなぜ研究するのかそれは知りたいからと言うのならば、小説も知りたいと言う欲求を満足させて欲しいと言う気持ちになった。

ここまで書き進めて来て、どうもどちらでもいいかという結論なってしまいそうだ。ともかく研究を続けてもっと面白ものを提供していただけたら嬉しいと言うことで、判断は先送りすることにした。

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