仲正昌樹 ハンナ・アーレント『全体主義の起源』NHKテキスト

仲正昌樹 ハンナ・アーレント『全体主義の起源』NHKテキスト

若いことから何度か、挑戦しようとして機会のなかった本だけれど、NHK100分で名著のテキストとして今月放送されるので、これに乗っかってみることにした。
このNHKのテキストはこれまで何度かお世話になっている。コンパクトにそれも要領よくポイントとなることを平易な文章で読めるので、とても参考になるシリーズで、重宝している。
これで、読んでみた。

一番身を乗り出したのは、やはり3巻にあたる全体主義そのものの内部構造をあつかった部分であろう。ナチスが秘密結社の手法を学んだという点であると思われる。

それはヒエラルキーを構成し上部のものにしかトップシークレットがわからないという構造を作り上げたことだ。上にけばいくほど奥義があるかのように秘密にしているという組織の構造をつくって民衆が自動的に動くように組織化していったのである。この方法はカルトにも共通するのではないか。

それを起こす運動は台風のように中心にむけて回り込んでいくように台風型組織構造にしたてたことにある。それは命令系統がいちじるしく不明瞭になる組織でもあった。

もうひとつは、組織の二重化でたとえば外務組織も旧来の外務官僚と党の機関としての外務組織のふたつがつくられた。このことから組織の中にいてもその全貌が見えづらくなってしまった。これがヒトラーの狙いで、このことによって求心力を維持したのだという。

この全体主義と呼ばれるものが、そもそも民衆の状況への不安から出ているということは確かなので、不安でなければこうはならない。また、現在においてもこの兆候はポピュリズムとして散見されるし、いまこそ同じ危機にあるとアーレントではなく、仲正昌樹は言いたいのだろう。

この大衆心理をあやつる方法にはきわめて自覚的であっていいだろう。そうならないためにはいつも安易な解決方法に流されないでよく考えるということだと結ぶ。

ここからはもう一歩進んで、では全体主義の社会になったらどうなんだろう? オーウェルや幾多のデストピア小説が描いたような社会は苦しいのか?と不謹慎にも問うてみる。

結構何も考えないのなら、楽なのかもしれない。考えなくてもいいから。しかし嫌なことも強制されることもあるに違いない。その嫌なことと現在の不安とどちらがより苦しいだろうか?

本書の表紙にもあるように「考えることをやめるとき、凡庸な「悪」に囚われる」とある。凡庸な悪とは思考停止のまま政治的に同調することであり、楽な道に逃げる事だろう。そして敵をつくり迫害する。そんな方法はないということを自覚し反芻することだと結んでいるが、これはより困難な道に思われる。

宇宙レベルで考えれば、人類が殺し合いして絶滅したとしても一向に構わないであろうから、そうなるならそれはそれで必然であるということでもある。そうなってはいけないということを誰か説明できますか?

昔から、全体主義なりデストピア小説を読んだ時に出てくる疑問はいつもこうだ。このことは話が飛ぶけれど、オウム真理教の事件の時もおなじようなことを感じた。なぜこんな災禍が起こったのかというのを否定するだけのポジションにたてばいいのかと。だからと言って全体主義を認めているわけでもなくて、自分自身のことで言えば、自由でいたいから強制されるのはごめんだということでもある。

ところで、全体主義というのはトータリズムではなくトータリアンリズム(Totalitarianism)である。トータリズムなんて言う言葉はないのだ。初めて気づいた。

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