荻上チキ『すべての新聞は「隔って」いる』 書評だっていろいろあるさ

荻上チキ『すべての新聞は「隔って」いる』 書評だっていろいろあるさ

すべての新聞というけれど、全てのメディアだということだ。実在するすべてのメディアは主張をもっているということだ。不偏不党をうたうのはいい。しかし、不偏不党のメディアが実在しない。さもあるかのような最高裁のNHKに対する判断は時代錯誤だということはすでに指摘した。

http://kaminori.bookmarks.jp/book2/2017/12/31/post-241/

そんなことより、このブログの関係上関心を持ったのは書評について述べている部分だ。むろん、新聞書評のことなんだけれど、およそ次のような要旨だ。

A「書評には大きく二つの機能がある。ひとつは読むべき書籍を、読み手と書店に届けるという機能。それと書き手と編集者に向けたエールともなる。もう一方の役割は、論壇から文壇、研究者などの書き手たちをサロン的につなげ『これが教養だ』と知識圏をつくっていく機能。『書評ジャーナリズム』ともいうべき機能と『書評サロン』とも言うべき機能が備わっているわけだ」

B毎日新聞の書評「書評を読んだだけで本を読んだ気になる書評」というコンセプト。

C荻上は「関心がありそうな潜在購読者の好奇心をくすぐる、読んで面白い書評を目指す」

D同じく荻上は「書評も言語の一種であるため、世の中に出回る言語に対して、書評欄で応答するということも意識する」

Eおなじく荻上「新聞が紹介した記事を『是正』することも目指した」

AからEまでが主な論点だけれども荻上は書評一般を語っているのではなく、「新聞書評」のことなので、こういった論点になるのだろう。しかし、Aなどは同業者組合のもたれ合いのようにも聞こえるし、Bなどは書評というよりはサマリーであり、リーダースダイジェストだ。

もともと自分のブログは新聞書評などというジャーナリズムを目的としたものではないので、好き勝手に書いている。たんなる呟きだと言ってしまえば、それまでなんだけれども、ある種自分にとっては必然性があって、それは発話したいという動機に基づいている。なんとも自分のなかにある〈気悪〉ないし〈感動〉をカタルシスするようなものであって、書き手としての解放のようなものだ。別にブログでなくてもいいのだけれど、小説として掬い取れないものを表現している。

とうぜん、これはいい本だと褒めることもあるし、逆にダメ出しすることもあるだろう。しかし、それらは現在に根を下ろしていて、現実意識として気づいたことなのである。

荻上は巻末でダメ出しの反対のポジ出しという20か条をあげているが、これは提案とでも言っていいようなもので、次善の策だ。

次善の策ではなく、あくまで私を中心とした関心の披歴という意味あいしかもたない。でも、書くという行為がある種同意をもとめる共同的な行為でもあるので、まったく社会と無関係というわけではない。

そうすると、意図としてはC,Dに近いかもしれないと思う。

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