渡部正峰『脳の意識 機械の意識』ありえないと批判しながら読む

渡部正峰『脳の意識 機械の意識』ありえないと批判しながら読む

①マシン・ブレイン・インターフェースには批判的に関心を持っている。これについては何回か書いている。むろん実現可能だとはおもっていなくて、批判的に読んでいるわけで、この書もその一つだということになる。

②批判的に読む根拠は、人間の意識を機械に取り込もうとすること、またはシュミレーションしてみることが、そのままでは意味をなさないということを主張するとともに、所詮人間の意識上のことは意識上の中でこそ完結するものであり、それ以上ではないという考えからだ。

③つまりは、人間は世界内存在でしかなく、まあはっきり言うと、外のことは関係ないのだ。世界内においてしか幸せはないし、かつ、問題もないということなのだ。人間ごときが何をしようとかにをしようと宇宙にとってはあずかり知らぬことなのだという基本的なかんがえがある。

④ところで①にもどって、それでも関心を持って読んでいるのは、AIを極端に恐れる必要はないという点で、AI幻想とでも呼ばれるものに棹を刺したいからだ。実にシンギュラリティーとかいって不安を煽る人がいるので、それに対応したいと考えているからだ。AIは人間の脳を模倣するものではなく、もっと他の役に立てればいいのだ。人間の脳なんてしょせんはたかがしれているので、模倣する必要はない。

⑤本書で一番関心が高いのは、終章「脳の意識と機械の意識」だ。〈たられば〉からはじまって、やっと機械と脳がつながったらという展望をのべるが、いかにもスパコン詐欺で逮捕された齋藤元章容疑者と同じく、その著述がSF調になってしまうのがなさけない。しかし、それも実現は遠い先のことではないかもしれないと齋藤と同じような安易なことを呟く。(何度も言うようだけれど、人間の脳などにつながってもしかたがない。埴谷雄高の『死霊』に出てくる「死者の電話箱」みたいなものはフィクションだけのもの)

⑥そのことを踏まえ第一章から読み始めると素人の私にとっては理解したと思っても数日してみると全く思い出せなくて記憶に残らない。そんな状態だからどうでもいいやと思っているんだろう。そんな中でも記憶にのこっている印象では、視覚野を検討している部分だろうか。つまり「クオリヤ」という見てわかるというのが意識の問題だとする点だ。これは単に見てそれがわかるというのは意識の問題ではなくあくまで視覚の認知の問題で意識の問題ではないのではないかと思う。唯識では眼識(げんしき)のことでいわゆる意の識ではない。たんなる視覚の刺激反応と意識とは別のものであると考えている。科学ではこれも意識なんだろうが、単に見てわかるというだけでは意識ではない。意識というならやはり心の問題であり、いわゆるAIというものに心が宿るかというとそれは不可能なことであるとともに、意味がない。人間とおなじような機械をつくっても仕方がないじゃないか。すでに75億人近くも人間はいるのにそれ以上増やしても仕方がないだろう。人間にはできないことをやらせる方がずっと意義がある。

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