荒木優太『貧しい出版者』そこにはなにもない

荒木優太『貧しい出版者』そこにはなにもない

本を読むということは、みんなで読むことや流行で読むということではない。こっそりと一人で読むものなのだ。それでこそ内容が頭に入ってくる。本とは自分との対話なのだ。

こっそり隠れて読むからいいんだ。

荒木優太は在野の研究者を自称する。そして研究成果を電子書籍に、そして紙の本として自費出版をしてきた。その記録が第3部「自費出版録」にある。

同じように自費出版し、電子書籍も出版してきた者として、その見解に共感する点はあるけれども、荒木のようにエキセントリックではない。

荒木はコールリッジの口を借りながら「文学とは少数のソフィスティートされた読者にしか理解されない神聖なもので、職業としてなりたたない以前に、カネに左右されてなすべき低俗な仕事ではない」とのべる。

そうは言っても「私は部分的にはコールリッジに背きたいように思う。つまり、複数の副業に就きつつも、それでアートの部分を無償にするのではなく、少額でも不定期でいいから、文章を書き、それをカネで買ってもらう、そんな回路がもっと一般化すればいいと思っている」とおカネになることへの期待をしめす。

ヤッパリお金にしたいんだと言ってしまえばそれまでだけれども、同じように自費出版、電子書籍を手掛けた者としては、おおいに気になる発言がある。たとえば、売れた部数とか、それに対する身の処しかたについても覚悟を聞くにつけ参考になるものがないわけじゃない。

しかし、おカネと創作の関係についていうなら、売れるならば売っていいし、だからと言って売る為に媚びる必要はないということだ。また、生活していくことに関してなら、おカネがほしいなら、文章を売って生活するより、普通の仕事をした方が早い。

それでも書きたいのなら、まずは生活を安定させることだ。それはサラリーマンならずとも、パトロンをみつけてもいいし、親の資産に寄生してもいい、けれど昨今のように市場経済に席巻されて、おカネ、おカネの世界にあっては、なんとか収入口をみつけておくしかないだろう。電子書籍や自費出版して売ろうとしても、よほどのラッキーがないかぎり、それで生活するのは不可能だと思っていいし、また読者すらいないというのが実情だからだ。

そのあたりの事情は荒木もわかっているらしくて「じぶんが歓ぶならすればいいし、そうでなければしなくてもいい。自費出版はそういうシンプルな話に戻るべきなのだ」と結んでいる。

やりたければやればいいし、おもしろくないならしなくていいというだけのことだ。しかし、コールリッジのいうように、文学がそんなに神聖なものであろうはずもないが、売れればいいというだけのものではない。

ただ、世界はいまだに市場経済であるから、売れるということは重要な要素であることは間違いがないし、それにむけて努力することもまちがいがない。荒木も批判するように、今は売れないが将来名作ととして発見され名誉を得るなんていうことがあるはずもなく、ましてジャーナリズムに発見され一発逆転というサクセスストーリーがあるはずもない。

しかし、それでも出版し世に問うことは、出版にかぎらずあらゆる分野の愛好家たちもやっていることなので、同じようにすればいいだけのことだ。絵画にしたって音楽にしたって、パッワークだって木工にしてもおなじなのだ。

なにも本だけが特別の地位にあるわけでもない。そうだとするなら、せっかく出版した本の売り先も自分たちで売れるようにすることは他の分野と同じようにやってもいい試みなのだろう。

荒木の言う少額でもいいから売れれば励みになるし、それがまた交流という読者を増やすことにもつながるかもしれない。

ところで、第一部の「小林多喜二と埴谷雄高」はどんなんだろう?

あとがきに正直に「端的に原題では売れないと判断されたからである」と述べ、形を変えてもう一度というわけだ。それでこのような本のタイトルになった。この試みは成功していて、現に私が買って読まされることになってしまった。

しかし、なんともはや荒木が生まれる20年以上も前に決着のついていることをあらためて蒸し返された思いだった。言うところの「政治と文学」という時の「政治」とは左翼政治のことであって、一般に使用するときの政治、つまり利害の調整とか生活という意味ではなく、体制転覆をねらう革命のことをさしている。しかし、いまやそんな革命などどこにも存在せず、ましてやマルクス主義からはじまって、すべての政治的経済的システム構築の思想というものが絶対のものではない状況にあって、いまごろ何を言っているのだという思いがする。人間の考えるシステムなんていうものがあくまで仮説的なものであって、やってみないとわからないというだけのことだ。

あなたとは情況認識が違うということなれば、ディスアグリーをアグリーするしかないが、凡庸な作家小林多喜二をもちあげても、新しい文学も新しい政治も出てこないといっておこう。

荒木はかなり、小林多喜二の再評価をのぞみたいようだが、そこにはなにもない。

コメントの入力は終了しました。