石川宗生『半分世界』(東京創元社) 円城塔に教えてもらった

石川宗生『半分世界』(東京創元社) 円城塔に教えてもらった

朝日新聞の書評欄で、円城塔が紹介していた。

そのタイトルの奇抜さと円城塔が紹介したというだけの理由で読んでみた。その筆力には敬服するものの何かが足りないという観が否めなかった。それは何だろう? おそらく現実意識というか現実性が希薄だということはすぐに分かった。それは切実さというより石川が現実を放棄しているからではないのかと思う。

いや、そう言ってしまうと間違いだろう。乾ききった現実の世界を描き、ある種中南米的な(本当かどうか知りませんが、中南米の作家の世界とよく似ている)世界を感じる。「その向こう側へ突き抜けてしまう」と表現された世界だろう。その世界が切実と感じないのは、そのこと自体がまさに現実なんだという意識が石川にあるからなのだろうか? 結論は出なかった。

ところで、円城はふと始まったホラ話をまじめに淡々と展開していくと評している。それがホラ話には違いはないのだがこれをどう考えたらいいだろうかと思い悩んでいた。(なんだかちょっと違うような)

タイトルと同名の作品「半分世界」は家がまさに物理的に半分になって見え見えになったという前提から始まり(ホラ話)それがひたすら文学的想像力で展開されていく。半分というのは、アリの巣穴の観察のために透明なアクリル板二枚ですき間のある空間をつくり、そこに土とアリを入れて観察するかのような半分の家なのだ。覗きこめるが消失した半分に、それをふさぐアクリル板があるかどうかはわからない。(ただし、セクション6に「石を投げ入れようとした男の子などは電光石火の早業で未然に取り押さえれ」とあるので、無いのかもしれない)読み始めたときは、これは一種の比喩かなと思ったが、実際に、物理的に半分だという。この前提を文学的想像力でひたすら展開していくという方法である。どう解釈したらいいんだろう?

そう思い悩んでいて、ふと気づいたのは、「これは実験小説だ」と解釈すればいいんじゃないかということだ。そういう奇想天蓋な前提を展開してみるという方法だということではないのかと。

そう思いつくと、石川は毎回少しずつ展開して、29回試みたのではないかと推察した。(29のセクションに分かれている)

そうすると元に戻って、この展開こそが石川氏の世界観であり現実感であり政治観ではないかという結論に行きついた。

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