見城徹『読書という荒野』読書番外編

見城徹『読書という荒野』読書番外編

世の中には読書論というジャンルがあって、本を読むということについて論じることは昔からある。ほとんどはどう読むか、などの本の認識、その対象の知識を得ることを重視している。

この本は読書という行為そのものを対象にはしていない。読書によって、どう影響されたのか、そしてそのあとどう行動したのかという読書を問題にしている。

そこで、それがわからないと「読書という荒野」などとタイトルされても意味がわからないだろう。そんな人生を左右する読書というものがあるのかというと私にとっては「あった」としか言いようがない。ずっと本に振り回されれてきたからだ。

同書を読んでいて、見城氏と同じ年に生まれて、それも一か月ほどしか違わないし、社宅という都市の中の村で育った環境も同じだということが分かった。違ったのは、不幸な小中学生のころの見城少年とはちがい、小中学生時はよかった。最悪の先生との出会いであったという少学5年6年生のときは、私には最良の先生との出会いであった。今でも交流が続いている。

最悪なのは、見城氏が弾けた高校生とは違い、自意識過剰気味の私はどんどん自意識の世界におちこんでいったという暗い時代であった。魔の10年は20年になり、やっと世間に顔を出したのはすでに30代も後半になっていたと思う。

見城氏のようなアグレッシブな行動もできず、ビジネスの起業に転身したこともない。見城氏と同じように吉本隆明におおいなる影響をうけながらも、こちらは自立の思想にカブレ、かつ親鸞が中心であったから、自分のことで精いっぱいだったということもある。しかし、自立して自分の思想を構築するのだという願望をいだいて躍起になっていた。

しかし、同じ時代を生きてきたものとして、やはり類似を覚える点は多々あって、たとえばp-50「何かを得るためには、必ず何かを失う。代償を払わずして何かを得ることは不可能だ」などは、つい最近までわたしも共有してきた観念だろう。

しかし、今では別に何かを得ることによって、犠牲を払わなくてもいいし、悲惨な目にあわなくても得るものはありうるという考えに変化している。むしろあまり気にならなくなってきている。べつにどうでもいいんだ。

実はこの本に引用されている前著『編集者 魂の戦士』をむかし読んでいる。さがせばきっと本の山の奥からみつけだすことはできるだろう。あえてそれをしないのはつぎのような事情によっている。

あの本の印象が作家を〈オトス〉(口説き落とすの意味)ためにはこんなにも大変なことなのかということを知ったことで、〈オトス〉に関しては私も営業をしていたので、かなり苦労したし、ノウハウも持っているが見城氏ほど徹底することはなかった。

なぜならそこまでするのはバカバカしいという思いがついてまわったからで、今回あえて比較しようとは思わなかったからだ。そんな、編集者としての生き方がこの本でも繰り返されて論じられる。二番煎じのようだ。

見城氏は自分には作家の才能はないと悟って、編集者の道に入ったとあるが、この本の文体そのものが、すぐれた小説と同じように読者をぐいぐいひっぱっていくものになっているというのは作家を〈オトス〉ために書いたという手紙の文体とパッショに元づいているからだと思える。つまりそれなりに作品を意識した文章になっているのだ。文章は、小説でもエッセイでも何でもいいが引っ張っていってくれないとおもしろくない。その興味は何でもよくて、そこに生が躍動していないとおもしろくない。幻冬舎の出版物は新書をみてもわかるようにその路線の延長上にあるようだ。

ところで、ここにあつかわれる小説家たちの本はほとんど読んだことがない。あつかわれる作家、評論家、演劇人についても、吉本隆明を除いて誰もいないという情況だ。いかに、まったく違う読書をしてきたのかということなのだが、扱われている作家たちに関心を示さなかった。(註:いや村上春樹は少しは読んでいるが、途中でこりゃダメだと感じて辞めてしまった。いまは批判的だ)

そして読み終えて、見城徹という人は、本当に自分で考え、切り開いていくことを旨とした近代人だったのだとつくづく思う。私は半分は近代人だが、もう半分は近代人ではなくなりつつあるのではないかとうたがっている。

おそらくメジャーになることもないし、マイナーな存在で終わるのだろうけれども、真に新しいことに挑戦していることは間違いがない。そう信じているという目標をもって生きていること、血を流して生きていることは、見城氏と同じであって、見知らぬ同級生というか同い年生まれの見城氏に親近感を覚える。

まだ、こちらも現実を捨てる気はない。

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