清水良典『あらゆる小説は模倣である』パクリと言ってもいろいろある
すでに2012年に発行された時に読んでいるのだが、妙にそのタイトルが気になりだした。
それは最近『日本書紀 成立の真実』(森 博達)という本を読んでいて、書紀だって中国の『文選』からのパクリがあることを知ったからだ。そんな昔からそうならば現在においておやということになる。
つまり、書くということは模倣であって、その書き記すということはあたかも自由であるかのようであって自由ではない。やはり書き方には形態というものがあって、それに支配されている。ソシュールで言えば「ラング」のことだけれども、そんなに大げさに言わずとも、言語というのは僕たちの謂い方によれば共同幻想なのであって、個々の表現は違っても形をとる時はこれまでの形態を真似ざるをえないということだ。
現に、いますべての言語表現はパクリであると言いたいわけだが、それは何かに寄り添って表現しようとしている。それはそういう形態だからであって、そういう言い方をしないと読めないからだ。そんなことどうでもいいんだというように素直に言えば、前段でパクリだと言っておきながら、後段でどうでもいいんだでは文章が成り立たないからなのだ。
それ故に、私的言語などというものはなりたたない。じつは存在しない。私的言語というものがあるなら、すでにそれは言語ではない。伝達されるということがないのだ。
そういう結論にいたったときこの本を思い出した。
すべての小説は模倣であると。
模倣、パクリといっても、リスペクトしての模倣もあれば、単に二次創作もあれば剽窃もある。そのちがいについては本書に詳しい。
しかし、それが問題なのではなく、やはり新しい小説と言った時のオリジナルという名の神話にあるのだろう。清水は言う。
「パクリ」という創作者にとって最も不名誉なはずの呼称を、そろそろ転覆させようではないか。
純粋な100パーセントのオリジナルを誇れる小説など、この世にはありえないのだ。その対極に「パクリ」という蔑称が置かれるとすれば、ヒントをもらうことも、影響を受けることも、あるいはそうした事実を都合よく忘れてしまった産物も、もちろん確信犯の二次創作も、すべてパクリの一種であることを免れない。
すなわちあらゆる小説は、部分や無自覚も含めて、多かれ少なかれなにものかからの模倣あるいはパクリなのである。
だとすれば、パクリを忌避するよりも、むしろ密猟者の自覚と技術の練磨こそ、書き手は目指すべきだろう。
このように近代の過度なオリジナル信仰に異論を唱える。
「パクリ」もOKなのだが、それはいわゆる学生レポートで使うような完璧なコピペもOKと言っているわけではない。むしろリスペクトして、おおいなる影響をうけて、新しいものを作り出せと言っているのだ。
それを清水はソシュールの「ラング」と「パロール」の譬えを使って説明している。日本語というラングはおなじでも、実際に日常で話される言葉としての「パロール」が千変万化の差異を取るように変化は可能なのだという。
しかし、小手先の変化ではなく、本来は「ラング」そのものが変化しなければならないのだろう。雲をつかむような話なのだが、要はこれまでの既存の形態のなかでいくら変化してみてもそれはヴァリエーションに過ぎなくて、真に新しいとはいえない。パクリでもいいから影響をうけつつも、いやそれを利用してもいいから、それを超える表現(表出)へと突き進むことではないのか。
ところで、清水良典は清水義範ではなく『新作文宣言』の共著者であった清水良典だとwikiで調べていて分かった。勘違いも甚だしかったのだが『新作文宣言』では「純粋文章」といって、創作の可能性について言及していたのではなかったかと思い出した。
ちょっと、書庫から探し出して確認してみようと思うが、それは次回に。