赤松明彦『インド哲学10講』過酷な現実にさらされている人に読んでほしい

赤松明彦『インド哲学10講』過酷な現実にさらされている人に読んでほしい

50年ぶりぐらいのインド哲学との出会いだろうか。

あのころの知識といかほどかわっているだろうかというおもいから手に取った。

50年ぐらい前に、いやまだ半世紀にはならないか、それでもかなり昔のことになる。大学紛争の中、集会とデモのあいまをぬって図書館にこもって、書架の中を書けまわっていた記憶が甦ってくる。

今は知らないが、あの頃は学生証を預けておけば、書庫の中に入ることができた。土蔵のような作りの書庫の中を走りまわっていたことを思い出す。とくに記憶に残っているのは、雨の降る日、雨の音だけが聞こえてきて誰もいない静謐さの書庫の窓から見た雨の降る風景だ。

そんな感傷はともかくも、リアルな政治的な闘争とインド哲学というあまりにかけ離れたギャップに苦しんでおり、頭の中が引き裂かれるような思いをしたことがわすれられない。

私の場合は仏教の中でも中観派という空の思想だったが、龍樹の『中論』を読んでもなんだかさっぱりわからなくて苦しんでいた。しかし、そこでこのなんだかわからないが一所懸命読むという行為は、ある種の癒しになるということを発見したのだ。あまりに縁遠い浮世離れした思考に集中することは現実の苦しさの癒しになるという思考上の生理とでもいうようなもだ。

このことは、特に過酷な現実を生きているひとには薦めてみたい。直接対象なっていることを考えるのではなく、まったく理解もおぼつかないような思考にくらいついてみることは、妙に癒しになるのだ。難解であればあるだけ、どういう意味なんだろうとああでもない、こうでもないと考えることは、いやしになることはあり得る。

特に、ほとんどの方はインド哲学の思考法には全く触れたことがないだろうから、何を言っているのかさっぱりわからないだろうから、その分だけ有効であろうと思う。そもそもインド哲学の本質が「どう生きるか」にあったということは間違いないのであるから。

追記

本書の議論で、癒しへのヒントとしてあげておくなら、8講9講でシャンカラ、ハリドハリ、井筒俊彦を引用してヴェーダンタの哲学を紹介している。

p-206

「目下の講義で考察の対象としている問題は、ブラフマンである言葉が、いかにして現象界を表しだすのかということであって、人間の側の認識の構造の問題ではない」

といわれる。人間以外に認識の問題があるなんて考えられない近代人としては理解できない問題である。でも、この哲学的考察が、では誰が認識するのかというとブラフマンであるのであって、それは全宇宙とおきかえてもいいとするなら、われわれの問題でもある。しかし、そんなことはいっこうにわからないことなのだが、人間でないものが認識するということをかんがえてみるのもヒントになりえるのではないか。

何を言っているのかわからんでしょう。

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