開高健『花終わる闇』一時代の良心的な知識人の感性

開高健『花終わる闇』一時代の良心的な知識人の感性

昨日、大阪市内の古書店、矢野書房で見つけてきた。この絶筆となった本が出たときには、ぼくはすでに余所へ行っていて読んでいなかった。この本は1990年発行とあるから、それ以前に書き継がれてきたことになる。それまでは、初期作品から始まって熱心に読んでいた。年齢的には20歳ぐらい違うのに、なぜか親しみを持って読んできた。

久しぶりに、開高の文体に触れて、ああこういう文体だったとおもいだした。後年、禁止していた性愛の表現を解禁したが、それまで抑制していた時の方がぼくは好きだった。

今回読み出して、終わっているなという気がする。さすがに戦後の高度成長期の怒涛の時代の文學だったのだと感じないわけにはいかない。

それは『あかでみあ めらんこりあ』に始まり『花終わる闇』で終わったということなのだろう。花終わるは未完だった事が証明している。

『あまでみあ めらんこりあ』に解題を付した向井敏によれば「戦後文学の雰囲気を気分表象として消化しようとする態度を定着した作品」ということになるらしい。〈戦後文学〉を引きずっていたことは間違いないだろう。それが終わっていたということを証明したのかもしれない。それは一時代のごく限られた良心的知識人の感性だったのかもしれない。しかし、ぼくたちはもうそんなところにはいない。それは間違いないだろう。

この感覚は何かに似ているという気がして、心の中を探ってみた。

そうだ、フランス現代思想という言説、雰囲気、感性に幻惑されていた20年とよく似ているのだ。要するに何でもなかった。恋に恋するように自分勝手な空想にふけっていたのだという感性の様な気がする。ここに登場する女性たちが主人公に都合のいい女性たちであるように、まさに男の勝手な空想だというのは、すでに作家論で指摘されているかもしれない。(ぼくは知らないけれど)夢見る戦後民主主義者だったのかもしれない。

むろん、開高はこの系統の作品だけではなく、書けない、書けないといいながら数多くの作品を残しており、そこには作家商売に励んだ実業の人でもあったことは否定できない。

今回、この本を見つけてよかった気がする。30年前にヤッパリ終わっていたのだと確認できたのだから。それでも、先行きが明るいというわけではなくもっと暗く深刻になってきている。

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