柴田勝家『雲南省スー族におけるVR技術の使用例』電子書籍のSF

柴田勝家『雲南省スー族におけるVR技術の使用例』電子書籍のSF

以前、朝日新聞で円城塔が推薦していたのを覚えていた。何の拍子かアマゾンで本を探していた時に表示されて、216円なら買ってみようとクリックしてしまった。

これがSFファンによる星雲賞のSF短編部門を受賞した作品だというので、現在のSF小説はこういう所にいるのかと認識した。

円城塔は次のように評している。

本作は古き良きSF風味を漂わせているが、かつてはSFの中にしか存在しなかった架空の現実が、今実際に体験できるものとなっているという後半のレポートと続けて読むと、よくわからない感動が襲ってきたりして、新たな種類の読書体験というものかもしれない。(朝日新聞8月12日)

後半のレポートというのは、併載されている『星の光の向こう側』という「アイドルマスター シンデレラガールズ ビューイング レボリューション体験記」と称せるもので、バンダイナムコの本社で体験したVR〈バーチャル・リアリティ)をさしている。

「SFの中にしか存在しなかった架空の現実が、今実際に体験できる」というのはたしかにVRの魅力なんだろうが、言語による像の形成と、実際に視覚、聴覚、によって体験できる像の形成とではどう違っているんだろう。要は言語による像と五感の刺激によって形成される像との違いなのだろうと思う。

それを読書体験ということで置き直してみるならば、VR体験ということを言語体験でまた置き直してみるということなんだろうか?

つまり、ここでの話ではスー族のVR生活というVR体験を言語によって置き直してみるということだ。

しかし、柴田勝家のVR体験にしろ、現在エンタテイメントでのVR体験はこちらは(ということは認識する人の側)何も変わらないで、VRが展開するという体験型のエンタテイメントと同じではないのか? むしろVRの本質といういうか可能性がある部分は、VRによってこちらの側の心性も変化するというところにあるのではないか。

今年の7月東京のドイツ文化会館でカフカの『変身』の毒虫になってみる「ヴァーチャルを体験するアート企画」に参加して得たVR体験はまさにそういうものだった。

目の前に展開する、小説上のザムザの部屋は眼前に展開する。父母の呼びかける声が聞こえてくる。ああ、小説世界を体験していると感じる。その画像と音そして感触は単に展開するだけではなく、身体性が拘束され、こちらの心性まで変えてまさに、私が毒虫になったら、小説のように、はじめは周りのことが気になっているのにいつしか気にならなくなり死んでいくという心性が実感できた体験だった。

そうすると、本作品もまだ一歩たりないと考えるのは、ないものねだりなんだろうか? 言語によって世界観を変えてくれ。あつかましくもそんなことを考えてしまった。

カフカのヴァーチャル体験記はこちら

https://romancer.voyager.co.jp/?p=83939&post_type=epmbooks