前田祐二『メモの魔力』ルサンチマン

前田裕二の『メモの魔力』を読んだ。

期待としてはメモの山による知的生産のようなことを考えていた。しかし、そこにあったのはぜがひにでも効用を生み出し、そして自分の人生を成功へと導びこうとする啓蒙書のたぐいであって、知的生産への真摯な試みの熱意よりも自己満足と、負の物語を背負会った青年の独白であった。

誰しも自分の人生を物語化するものだけれど、それははっきりいってフィクションにすぎない。どんなに苦労して、その不幸に負けまいとガンバってきたかが熱弁されるにしても、それは自分で脚色して得た世界なのだ。そう考えないと生きる気力がわいてこなかったことは理解できるが、それでは永遠に救われることはない。

まして、自分探しと言ったようなものに、このメモのシステムは使うべきではなかった。

自分を対象としたメモについて172ページで述べる。

「自分とは何か? 自分が本当に望んでいるものは何か?」

そう、問いかける前田氏は、それがこの娑婆世間での自分の価値(売り物になる能力)を探すことに集中していくことによって、決して自分とは何かの本質にせまれないであろう。自分の世間的価値などどうでもいいだろう。むしろ心の平安へと至ることのほうが重要だということがわかっていない。その証拠に194ページでは「人生は『時間をどう使ったか』の結果でしかありません」といかにもビジネス書らしい結果に達している。

それならなぜ、「自分とは何か?」と問うたのだろう。

やはり、このことは気になるだろうが、メモのシステムを使うに適しているのは、知的生産をあつかう分野のものであり、外部世界の分析に適しているのだ。自分の内面をメモして抽象化して転用しようとするとしてもそれは不可能なことなのだ。

このことはこのシステムをつかう分野の混乱とメモとノートの混乱、自己啓発と自己省察の混乱が見られる。すべてを突っ込んでのルサンチマンであった。終章にある、告白は彼が思っているほど重要なことではなく、この負のエネルギーが生き抜く根源であったことを物語っているにすぎない。

もし、かれが心の平安をもとめるなら、まずは一切のメモを捨てることだろう。

とはいっても、腐してばかりではいけないので、見るべきものはないだろうかと考えてみた。一番いいのはファクトとアイデアを分けたことだろう。しかし、会議とか講演などのシーケンシャスなもの(ひとつながりのもの)はこのノートの形式でいいけれども、街中の観察とか思いつきなどはノートというよりカードのほうがいいんじゃないだろうか。そしてそれは明らかに外部の観察に、たとえば新たなビジネスの工夫、製品、システムなどの改善への工夫など、いわゆるビジネス書の対象とする分野である。

心の内側を観察することには適していない。そこで描かれた抽象化→転用といったものが、自分の都合のいいようにフィクション化されているからだ。このことはすでに述べた。

そのことをふまえて、なぜメモなのかというと72ページにおいて「メモとは単に記録するものではなく、受け取った情報に何らかの意味合いを付与し、そこから知的生産をしていくために存在する」と記している。

また、93ページでは「転用すべき他の具体課題がないと、単なるゲームに終わってしまう」とも述べている。

これらを勘案するなら、やはりカードの方がよかったのではないかと思う。カード使用については50年も昔からたくさんの知的生産の技術が報告されている。そのカードからメタノートを作成すのもいいんじゃないだろうか。転用まで行っても差し支えない。

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