並川孝儀『ブッダたちの仏教』

並川孝儀『ブッダたちの仏教』

ちょっと他の件でゴータマ・ブッダの根本思想を確認しておこうとして並川の『ゴータマ・ブッダ考』と『スッタニパータ』を読み返していた。それより先に荒牧典俊の「ゴータマ・ブッダの根本思想」を読んでいるので、特に輪廻業思想に対するゴータマの見解がカギになると思っていたので、そこを中心に見ていた。

ゴータマ・ブッダ在世時の文献はなく死後に編纂されたものばかりであるので、『スッタニパータ』といってもその一つであるが、かなり古いものとされているので、在世時の事情をよく伝えているとされる。しかし、その中にも古層と最古層と呼ばれるものに分かれるといい、最古層と言われる部分がゴータマ・ブッダ在世時と死の直後の様子が残っているとされている。

それによれば輪廻業思想に関して、ゴータマ・ブッダは直接批判はしないが、前向きではなくむしろ否定的な態度をとっていた。仏教の本道から言っても輪廻思想は否定されるものであるので、確かにそれは確認されるのであるが、輪廻思想というと、輪廻こそが仏教であるような誤解もあるので、どう解するのか議論の分かれるところであったのだが、並川の見解は、次のようなものだった。

『スッタニパータ』の最古層では否定的な輪廻思想も、古層の時代になると受け入れていったようだ。それは当時の時代状況が輪廻思想はメジャーな思想であって無視することができなかったからだ。古層では逆にそれを受け入れてそこに仏教の考えを逆に盛り込んでいくことになったのだとしている。

元に戻って荒牧の輪廻思想の否定こそがブッダの根本思想だと言うのは、そもそも、当時の思想界に蔓延していた輪廻思想によるニヒリズムの打破が急務であったからとしていた。何度生まれ変わってもまた同じだと言うことになれば何もしないという不活性化された停滞観に陥ってしまう。そのニヒリズムをどう打破するのかということが課題になっていたのだと述べている。これはゴータマ・ブッダに限らずジャイナ教など様々な宗教者たちがその状況に立ち向かっていた。

これを今日的、日本の情況移せば、何をやっても変わらないし、よくもならないとする無気力、ニヒリズムと共通しており、さすがに輪廻思想は日本では根付かず死ねば死にっきり思っているらしいから同じようなニヒリズムではないけれどもやはり何をやっても変わらないとするあきらめ、またはニヒリズムが蔓延しているのと共通するだろう。

そこには連鎖を断ち切る新たなブッダ(目覚めた人)の登場が待たれるのだ。

並川によれば、ブッダはゴータマ1人ではなく各時代にブッダは現れて、仏教は続いてきたのだと言っている。そのことが本書のタイトルでもある複数のブッダという表現になっている。そうだとするなら、現在においてもブッダは登場するはずなのだということになる。

そのブッダは、さすがに輪廻思想の否定ではないけれど、心の平安を求めるものであっていいはずだ。

有力なのはやはりマインドフルネスだろう。しかし、並川の終章「日本の仏教の今」の中でマインドフルネスには触れていない。

「日本社会全体に横たわる人々の苦悩と切実な声に耳を傾け、直視し、それを実感すること」

「自発性と主体性によって人々の避難所となるべき寺院をつくり、僧侶を育成することではないか」

などと記している。 実際これらの提案は空虚だと言っていい。どこに苦しい修行した僧侶がいるのだろう。どこに切実に時代の危機を考えている宗教者がいるのだ。どこに宗派に属しない僧侶によって、寺院ができるのだろう? そんな提言は他人事としか思えない。実際に修行して娑婆世間と交わる実践なくして出てこないのではないだろうか。

ゴータマ・ブッダがそうであったように。

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