大竹晋『「悟り体験」を読む』

「悟り体験」というのが、インドから大乗仏教の覚醒体験が伝えられるまで、中国も日本にも悟り体験は存在しなかった。それが中国に伝えられて始まり、日本にも伝えられて始まったとされる。中国では本人が死んでからの開示だったのが、日本では生きているうちに語るものになっていった。

「悟り体験」といっても正確には宗教体験であって、それは自己申告なのだが、すでに悟った人からはわかるというものらしい。

悟ったと語る文献を集めて、その特徴を整理したのが、大竹氏のこの書籍になっている。

悟り体験というのは、おおむね五段階を経ているという。

1自他亡失体験(自己と他者との隔てを忘却して、ただ心のみとなる体験)

2真如顕現体験(通常の心である“自我の殻”を破って、真如が顕現する体験)

3自我解消体験(真如ー法無我ーが顕現したことによって、通常の心である“自我の殻”が解消される体験)

4基層転換体験(通常の心である“自我の殻”が解消されたことによって、存在の基層が従来の基層から転換する体験)

5叡智獲得体験(存在の基層が従来の基層から転換したことによって、かつてない叡智を獲得する体験)

これらが、語られているかというのがメルクマールになるのだというのだが、本来悟りというのは、言葉で語れないというものなので、それでも本当に可能なのかという疑いがある。

その「悟り体験」に批判があるのは当然だろう。(「批判の諸相」でいくつか紹介されている)

しかしながら、悟りといっても一般人にはほとんどよくわからないものなので、あやふやな知識やこれまでのクリシェに終始してしまうのが、実情だろう。

また、逆に少しでも考えたことのあるひとなら、興味があるものだろう。

ここに検討されているのは大乗の仏教のことで、テーラワーダなどの仏教は対象とはしていない。(むしろそんなものはない)

マインドフルネスにおける「気づき」というのがこれにあたるのかどうかわからないが、当たるとするなら、共通する点は多いように思うが、なにも仏教に限らず、この種の宗教体験は万国共通であるように思う。

でも、この種の体験が無害であるとは言えなくて、それは例えば、『一人一殺』をあらわした昭和のテロリスト井上日召の悟りを、日蓮宗の例として引用しているように、悟りが逆転してニヒリズムに陥ることもあるのだということも重要な問題である。むろん、井上日召だけでなく、オウム事件のテロリズムでもあったのだ。現在ならはっきりとあれは悟りでもなければ瞑想でもないと言い切れるのだが、あの時はそうはならなかった。悟りの体験がなかったというよりも、この種の知識に免疫がなかったのとそもそも悟りというものを遠ざけていたのが陥穽だったのだ。

悟り体験をそして宗教体験を恐れることなく普通に話せるような社会になってほしいと思う。「悟り」を特殊化せずに普通に話すには、宗教と政治の議論はしないといった前時代的な無知な近代主義を脱することだろう。かなり、柔軟になってきたと思うけれど、まだまだ頑固な人がいる。

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