内山興正『拈自己抄』素晴らしい

本編は2019年の10月頃に下書きとして書き下したのです。長らく公開をためらっていたのは、文字化して書き下すだけではだめじゃないかと考えて、このサイトも中断していました。でも、所詮文字は文字であってそれ以上ではないのであって、そこはあきらめて公開することにしました

内山興正『進みと安らい』も驚いたが、『拈自己抄』はもっと素晴らしくて直接的だ。

一気に本質に迫っていく。20年以上前に連載されたものが、昨年12月に出版されたものだ。

28回にわたって連載されたものを一冊にまとめたとあるが、徒然のエッセイをまとめたというものではない。

文脈は、帯にあるように二つ。

①「拈自己」ということ。前編

②生きたいのに死なねばならぬとういう絶対的事実への問い。後編

をぐいぐいと詰めていく。

厭きさせない。

これだけのものを、晩年に絞り出されたことに驚く。

拈自己とは「すべてを自己の問題として取り扱う」ということ。

すべてというのは森羅万象、すべてが自己の問題なのだ。ただ、この自己というのが、娑婆世間を生きる自分のことではない。そんなちっぽけなものを指すのではないのだ。

じゃ何かというと、次のように述べる。

「私のいう「自己」は始めからいってきているように、釈尊のいわれる「自己の拠り処は自己のみなり、よく調えられし自己こそは真の拠り処なり」の自己であり、道元禅師のいわれる「仏道をならうというは、自己をならふ也」「拈百草は拈自己なり、拈万木は拈自己なり」の自己です」

このように、われわれが一般にエゴとよんでいるようなものではない。むろん、意識的自己たるselfのことでもない。

そのような自己があるのかというとあるのだ。その宗教的真実に出会うことがすなわちブッダ、目覚めた人であると思う。特別な人だけが可能なのではなく、だれもが可能なのだということが重要だ。

生きたいのに死なねばならぬというのは人間存在の根本的実存のことだ。

普段健康に暮らしているなら、いっこうに気にならないことが、病気をしたり、老いがせまってきたりすると死というのが現実化してくる。

それは次のように述べている。

「われわれ「人間のいのち」も外側の第三者的見方からいえばこそ、単に「脳が働いていればこそ」と思うのであり、また死に対しては、ただ「ご苦労様でした」の一言で片付くわけですが、しかし「そのいのちを生きる、当の本人、自己」としては、「自己こそが何から何まで」であり、何を取りあげても自己でないものはない。「自己ぎりの自己」です。それでこんな当の本人としての自己を生きればこそ、「生死」も単に「生者必滅」という一般論では片付かぬ問題として現れてきます。」

ここには死というものが、第三者的にみれば、人の命はつきて死ぬものであるとわかっていても自分の(自己と表現されているが、本当の自己と分けるために自分と表現しておく)の命は、別のものであって、そう簡単には片づけられない。そう自分がすべてであり、何であれかんであれ自分だったのだということだ。

そこに救いがあるのかというと、永遠の命を感じること、直観することにあるという。

どうして感じ取るのかというと、連載の最終回(本編は連載されたものを書籍化したものだから)で文脈でいうと、次のようになるだろうか。

なぜ永遠の命なのか?

これは時間的な永遠の命を意味しないとある。当然だね。一切は空のなのであるから、永遠、不変のものなど有り得ない。

そうだとするとなにが永遠なのか。第三者的にみると確かに死はある。しかし、こと自分の死に関してはあるのかないのかよくわからない。一度死んで戻ってきた経験がないから、また死は自分にとってはそう簡単に納得できることではない。この死にたくなないのは生存したいということで、この生存したいというのは、そもそも何かをしないと居られないというのが生存本能で、あらゆる人間の当為はすべて、人間の死ぬまでの退屈しのぎの小道具なのだと喝破する。

それが老齢やくたびれから、どうでもよくなってきたとしたら、そこには「不生不滅、不垢不浄、不増不減」「一切が二つに分かれる以前の生のいのち」に近づいているからだという。

この二つに分かれる以前「有と無」「思うと思われる」「自と他」「拝むと拝まれる」という分かれる以前は、人間の思いの加わらない命だろう。

このなまの命は生滅以前の力であって、不生不滅である。

この思いには思われるものはふくまれないから、自己から自己への無限の距離があって、(ここで自分が自己という言葉に代わる、つまり娑婆世間での自分とおなじものではないと表したいため自分と言い換えてきた。内山にはそのような表現はない。いつも自己だ)、それを追求していくところに永遠の命の水がわきあがってくるのだという。

これを悟らば、永遠の命、つまり死んでも死なない自己を見つけ出すことができるのだという。

それは直観かもしれないし、感得かもしれないし、私の言う直接知覚かもしれない。どう呼んでもいいけれどそれを知るならば、こころは平安になるはずだ。

『拈自己抄』の本質はこの生命にある

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