南直哉『死の練習』私が死ぬということを考える

死といっても、他人の死ではなく自分の死であり、自分が死ぬということだ。

南直哉は、曹洞宗の禅僧だけれども、あなたはむつかしいことをよく言うが、要するに仏教とはどういうことなんだと問われて、死ぬ練習だと答えたことによる。これがタイトルになった。

普通では何を言っているんだとおもうかもしれないが、たぶん多くの人が極力考えないようにさけている「私が死ぬ存在だ」ということに真正面からたちむかっている。

南直哉は多くのファンをもつ禅僧だけれども、落としどころは曹洞宗の禅らしいところに落とされるので、どこへ連れていかれるのだろうというような不安がることはない。また、これまでの著書『超越と実存』などで開示してきた思想を、死(私の死)という超越的なものを扱ってさらに深化させているようだ。

我々は他人の死ならよくしっている。おばあちゃんが死んだ、おじいちゃんが死んだ。誰々さんが死んだという身近な人から、ニュースで知る第三者の死まで知っている。でも、自分の死は知らない。死んだことがないから。経験がないし、イメージもつかめない。せいぜい他人の死から類推してみるしかないからだ。

南直哉は「『不安』と『恐れ』が消え心がラクになる3つの方法!」と帯文にある方法を提出しているが、あまり有効とは思えない。むしろ、禅語である「放下」(自分を放りなげてしまうこと)の方が有効かもしれない。第三の方法と似ているかもしれないが、意識的に自己を大切にしないという構えたものでなく、執着をはなれるという仏教にとっては、ごくごく当たり前の言い方であるが、これが一番わかりやすいだろう。クリシェだから。これがまた、そう簡単にはできないんだが。

私自身は自分が死ぬということを、どう考えているのかというと、いよいよになってから泣き叫ぶなり、オロオロすればいいんだと思っている。それなりに成るようにしかならないだろうと思うのだ。それまでは、幾つになっても先はあるのだと思っているだろうから、気にすることはないのだ。おとなしく死んでいくのか、暴れまわるのか、苦しむのかわからない。その時になってみないとどうふるまうのか知らない。

同じ曹洞禅の内山興正は『拈自己抄』の後編で、生死の問題について果敢に迫った。(当ブログ『拈自己抄』参照)そして「生死する自己の生(なま)のいのちそのもの」は生滅以前の力であり不生不滅の力だと言いはなった。そこには生死はないのだ。つまり、死んでも死なないということだ。

ここまで悟れるかどうかは別にして、この問を無難な地点に着地して安心を述べるのではなく、もっと先に進みたいと思う。

南直哉は前著で批判した超越(自己の死ということ)を持ち出して論じたけれど、この死こそが超越であり、他者であるということを思わば、どこで実存へと降りてくるのだろう。

禅を使って適当な妥協をするな、折り合いをつけるな、もっと先へいこう。

こんな短い文章では、何を言っているのかさっぱりわからないだろうけれど、いつか書き下して見せる。

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