関裕二『古代日本と朝鮮半島』(PHP文庫)

久ぶりに関裕二を読んでいる。歴史読み物だけれど、時々小説でも読むかのようにたのしんでいる。新しい知識というよりもよく承知している情報下での読み物なので、どこまでひねってくれるかというのがカギだ。

今回は歴史時代以前の人類の移動から、日本列島に住み着いた人々がどういう人々であったか、そこから書き起こして、縄文、弥生の両時代区分があいまいで、かつ弥生という渡来人が先住民の縄文人を蹂躙したのでは無いという観点にたって、読み解き始めている。

やっと、100ページが過ぎて、おなじみの日本古代史でよく登場する文献たちがあらわれる(『後漢書』『魏志倭人伝』など)

この本の行き着く先は「はじめに」で書かれているような着地点を想定している。

「お人好しで戦いに弱く、争いに敗れ追い出されてきた人間が、最後に辿り着いたのが日本列島であり、もう逃げ場がない列島人は、この地でいかに生きのびるかを模索したのだろう。人びとは共存の道を探っていったのである。文物の通り道であるゆえに、つねに隣国の侵略の脅威に怯え続けてきた朝鮮半島の人たちとは、根本的な発想が違っていたのだ」

これがいかに展開されて、楽しませてくれるかというのが、この本の牽引力になっている。

日本人は、自分たちが何者であるかということに関して関心が高いので、「日本人論」はよく売れる。

その時々の情況によって左右されるとはいえ、新しい知見が公表されると否応なくそのモデルも変化するといっていいだろう。

そして、この本のような、日本人論は、この本の元本が『なぜ日本と朝鮮半島は仲が悪いのか』とあるように、その謎の解明にあるということは間違いないだろう。

たのしんで読もうっと。

(読了したらまた感想を書きます)

ここまでが、前半で、読了したので後半戦。

読了して一番感じるには、日本古代史、古代朝鮮史の知識とDNA解析を使った出アフリカを目指したホモ・サピエンスの移動を追った知識を駆使して描いている点だろう。

①すぐに気づくのは、地理的な東アジアそれも朝鮮半島と日本列島が必ずしも国境ということ、民族というもので、きっちりと分かれていたのではなく、入り混じって生活していたという現実から出発しているということ。実際にその地で暮らす人々には国家意識があったとは思えないということ。②古代、日本、朝鮮の動きの時代と人類の移動という時代では尺度が違うということ。あまりに時間差があるということだ。

①については百済が「任那四県割譲」ということから、九州北部も割譲をせまったという見解を聞くと我々の常識を覆す発想で、確かに今の国境で想像してはいけないのだということがわかる。もっと、柔軟だったのだ。

そう考えるなら古代から朝鮮半島をめぐっては兵をだしていたし、また朝鮮半島には倭人も多数生活していたという事実があるということだろう。それを明治以後もそういう地勢分析を続けていたというに過ぎない。

現代の我々は侵略の歴史と教えられているので、さも悪いようなことをしているかにみえるが、それはお互い様だということではないかということだ。

もし九州北部も割譲していたら、国境は対馬海峡ではなく、関門海峡になっていたということであり、それは有り得たかもしれないという事態である。

②についてはあまりに時間差がありすぎて、DNAが本当に人の行動に影響するのかという疑問がある。通俗的な解釈で日本人がお人好しというのも、また、商売では狡猾であったともいう通俗認識もおよそあてにならないのではないか。お人好しであるとか、狡猾であるとかは個人個人の問題であって、民族としていえるのかというのは疑問がある。民族をひとまとめにして考えるのは、あまりにもおおざっぱ過ぎて、そんな議論はあてにならない。

今日、人口280万人の大阪市でも外国人は14万人も住んでいると新聞が伝えていた。古代ならもっと人口に占める割合は多かったかもしれない。入り乱れて住んでいた。このことは朝鮮半島においても同じで、倭人が半島に多く住んでいたとも考えれれるわけで、どこまでが倭人でありどこまでが半島人であるかの区別はつきにくいというのが現状だったのではないか。(そもそも、そんな区別があったのか。だからと言って日本列島人は日本語を使い続けていたのは、やはり弥生以前にすでに文化の基盤があったとする関裕二の見解は正しいのだろう)

そして最後に登場する、中臣鎌足=豊璋説(扶余豊璋、百済最後の王である義慈王の王子)は関裕二の持論だけれども、どこまでが本当なのか眉唾物だが、ここに落とし込んでいくのはもったいないような気がする。

しかし、小説としては落ち着くところに落ち着いた結論なのかもしれない。しかし、これまでの壮大な議論のレベルとこの陰謀論的な結論では次元が違うので、とまどってしまう。

そして考えるのは、日中韓とカテゴリーに分けて考えるのが本当に有効なのかどうかはわからないと考えるようになった。

DNAで考えるのもなんともおかしい。

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