横田南嶺『盤珪禅師の語録を読む』を読んでいる。まだ、途中だけれど面白いと思う。
盤珪禅師は、確か鈴木大拙の『日本的霊性』で扱われていたと記憶があるけれど、詳しくは知らなかった。
江戸時代の播州出身の禅僧で、「不生禅」の提唱者というぐらいしか知らなかった。のちに白隠に批判されたということは知っていたが、なにをどう批判されたかまでは知らない。
今回、横田南嶺のこの本で、実際の語録とその現代語訳に接して、これはこれはと身をのりだした。
不生禅というのは、不生は「生まれない」ということであり、禅はそれにくっつけただけで、実は「不生の仏心」を知れ、またはいつも一緒にいることを知ればいいのだという悟りでもある事だ。分かりにくいけれど、私たちはいつも生まれもしないし、滅することもない仏心を持っているので、それに気づき、よけいな欲を出さないでいることこそが肝心だという教えなのだ。自分にある仏心に従えといっているかのようだ。
本人は死ぬような苦しい修行をしたのに、他者には同じことは求めない。あんな辛いことはやることはない。常に仏心に気づけよと諭す。
不生が「不生不滅」から来ていることは間違いないだろう。そして、仏心というのが仏性のことだろうと思い込んで読み始めたら、そうでもないみたいだ。
「悉有仏性」の私版かと思ったら、ニアンスが違うみたいだ。
そんな「学解」*的なものではなく、苦しい修行の果てに悟った内容だとされる。
*学解(がくげ)学問上の深い知識や見識。日本仏教では重視されてきた。知識編重ということか?
横田は「禅師の曰、仏心は不生にして霊明なるものに極まりました。不生なる仏心、仏心は不生にして一切事がととのいまするわいの」という語録を「仏心は生じたものではない。誰かによって、何らかの条件によって作り出されたのでもない。だから条件によって滅することもない。不生不滅の素晴らしいものだ。仏心は不生で、その仏心ですべては調うのだ」と訳している。
語録にあるように、直接話法的な「わいの」という方言が飛び出してきて、いかにも禅語録的ではない。普通なら漢文で格調高くあるものと予想するが、そんなこともない。そこがいいのかもしれないし、禅特有の公案もいらないというのもいい。
ひたすら同じことの繰り返しであって、同じこと繰り返していると身にしみこんでいくのだとも言っているので、「不生の仏心」一本槍で成り立っているかのようだ。
まだ、途中だけれども、おおおよそ何でもかんでも仏心を自覚せよと迫る、応える、諭す。
辛い修行と、むつかしい公案というのが禅と思っていた私には、親鸞的な庶民の実存に迫るような物言いに面白さを感じている。
もう一つは、横田南嶺の理解する盤珪禅師と本人とは若干ずれているのではないかと感じる部分がある。
横田の言うようにそんなにすっきりと悟りへと導くのだろうか。
もうすこし、屈折しているように思うんだけれど。
おそらく、宗教は簡単な一本の教えでいいんだろう。
難しく言ってはいけない。
ふと、わかってもらえばそれでいいのだと感じた。